2011年8月14日日曜日

あえてリアリストであれ

(この記事は2011/05/21に書かれました)

自分は、リアリストである。事実(と確認されていること)と、正確なデータだけを信じる。


そんな自分なので、汚染されているのかいないのか具体的な根拠も示さずに「被災地の農家を応援しよう」などという情緒的なキャンペーンが展開され、学校給食や企業の社食で被災地の食材が使用されていることを非常に不愉快に感じている。学校給食においては不愉快を通り越して怒り心頭である。大人は食べるものを自分で選べるが、子供は選べない。

私は非情なことを書いているかもしれないが、生きて行くのに必要なのは同情より「命」だ。生産者の生活を守れれば消費者の健康が損なわれてもいいというロジックが、どうして成り立つのか。まやかしの思いやりでいいことをした気分になっている人は、倫理という言葉の意味を分かっていないだろう。放射能汚染を、別の有毒な化学物質や添加物に置き換えてみればすぐに分かることだ。例えば、ある化学工場で爆発がおき、周辺に有毒な物質が飛び散った。畑で栽培された野菜にもそれが付着したが、国内の基準値内ということで出荷制限がかからなかったとする。その野菜を「基準内だから安全です」と言って売ることが、倫理上許されるだろうか。そのような食品を、消費者が喜んで買うだろうか。答えは明らかだと思うが。

添加物や農薬では許されないことが、放射能汚染では許されているのは何故か。この国では今、異常なことが起きていると思われてならない。

倒壊しかけた家屋の旅館に宿泊したがる観光客はいない。
旅館は建物を安全に修復してから客を宿泊させるのが筋だ。
・・・話が微妙にズレてきた気もするが、食材やそれを育てる大地にしても同じことだ。

食品の放射能汚染や風評被害についての自分の考え方は、中部大学・武田邦彦氏の意見に一致している。過去にも何度か引用しているが、改めてあげておく。

科学者の日記110520  哀しい茶葉の検査拒否
(略)
次に広がったのが、汚染された野菜を「地産地消」という名目のもとで、これもやはり関東や福島の子供たちに食べさせようとしたことです。特に、汚染された野菜を給食に使ったり、スーパーが地産地消の野菜しか仕入れないというようなことも行われました。これも東電の責任を「被爆という形で何も責任がない人たちに押しつける」という生産者の非常に自分勝手な判断のように思いました。

(略)
お茶が売れなくなったら困る、放射性物質が検出されたらお茶が売れなくなるというような考えだけで、お茶を生産されたらわたくしはそんな食材は買いません。その放射性物質の量がどのくらいということには関係ありません。人間は「信頼性、誠実さ」です。だから、飲む人の心が判らないで生産する人の食材は口に入れたくないのです.

科学者の日記110512(2) 明るい未来は自分で作る
日本人なら、あるいは福島の人が可哀想だからということで、福島の農産物を買うかも知れません.でも、外国人はそんなことは考えずに「何ベクレルですか」と聞くだけです.そんなときに数値を示さずに「安全です」などと言っても、信じてもらえないのは当然です.逆に「土地が汚染されているのに、なぜ野菜だけ綺麗なのですか」と聞かれて困るだけです.

(略)
福島の人を助けること、
それは汚染された野菜を食べることではなく、
批判したり受け入れなかったりすることでもなく、
福島を綺麗にするのに力を貸すことだ、
それなら、日本人は全力を尽くすだろう.
でも、その福島がSPEEDIのデータを隠し、
野菜のベクレル表示をせず、
ウシや瓦礫を日本中に拡散することを続ければ、
あるいは日本人でも愛想を尽かすかも知れない、

私は日本人だが、やはり「何ベクレルですか」と聞くだろう。根拠も示さずに「安全です」と連呼されても、信頼しないのは当然である。それを「風評被害」と呼ぶのは論理のすり替えに他ならない。

自分は、現在まやかしの被災地応援キャンペーンを生み出している原因は、多くの日本人が政府や大企業のプロパガンダに思考停止状態のまま流され、かつ合理主義性に欠けているせいだと考える。だから、作家・丸山健二氏の「日本人は精神主義で、現実を直視できない。情緒に流されず、合理的に物を見るようにならなければ、何度でも同じ悲劇を繰り返すだろう」という言葉に強く共感するのである。

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